2005年 07月 20日
「連れて行ったものの責任」について |
明石花火大会歩道橋事故については、2005年6月28日に神戸地方裁判所にて判決が言い渡された。いずれ別の機会に判決については詳しく触れたい。今日は、判決の直後から、歩道橋事故遺族原告団のHPにいくつか投稿があり、その中で連れて行った者の責任はないのか、親はどう考えているのか、という質問や意見があったので、それに答えてみたい。
この質問と意見は、事故の直後からずっと続いている。私なりに、いろいろな機会を捉えて繰り返し発言してきたつもりだが、民事裁判の判決が確定し、事故から丸4年目を迎えるのを機にもう一度、この問題について考えをまとめておきたい。
私の知る限り、自分が連れて行った責任を感じていないご遺族は一人もいない。ご遺族、特に亡くなった人と一緒に花火大会に行った人は全員、深い自責の念にずっとさいなまれ続けている。このことは、この4年間ご遺族と一緒に裁判を乗り切ってきたものとして間違いないと断言できる。たとえば、どうして子どもを花火に連れて行ってしまったのだろう。自分が連れて行きさえしなければ。日ごろはできるだけ人込みをさけるようにしたのにどうしてあの日は歩道橋に入ってしまったのだろう。主催者(警備会社も含む)や警察が警備していてくれるだろうと安易に信じた自分が愚かだった、云々。ご遺族は、子どもを花火大会に連れて行ったことについて、痛烈な責任を感じている。ご遺族は、自責の念を噛みしめた上で、誰かが最低限のことをしていれば、あのようなことは起きなかったのではないかという疑問を持っているのである。
考えてもみて欲しい。花火大会は、そんなに危険な場所と思われているだろうか。人混みといえば、TDLや愛知万博もたいへんな人混みだが、事故が起きるかもしれないとか、常に危険を予知して危険を感じればすぐ撤退しようと考えながら、TDLや愛知万博に行くだろうか。2001年7月21日に明石であの事故が起きるまでは、花火大会がそんな危険な場所であるというような認識はなかったはずだ。むしろ、子どもやお年寄りも含めて楽しめる、夏の楽しい風物詩であるはずだ。ほとんど全員のご遺族も、花火大会にはそのようなイメージを持ち、危険なんてないだろうと考えて子どもを連れて行った。だからこそ、自分が子どもを連れて行ったことについて、自責の念を断ち切れないのだ。花火大会には、危険が内在するというのは、あの場所が混雑するおそれがあるというのは、いわゆる後知恵に属する考え方なのだ。
もうひとつ言いたいことは、亡くなったり、怪我をした人のほとんどは花火の打ち上げが始まる前に歩道橋に入っているのだが、その時間帯は歩道橋の北半分は、普通イメージされているほど混雑はしていなかったという事実である。歩道橋内では、比較的ゆっくりとではあるが、歩いて歩道橋の半分あたりまで進むことができた。その後極端に進行速度が落ちたが、そのときは後方(歩道橋の北半分)にぎっしりと人が埋まっており、その人混みに逆行してまで歩道橋から出ようとは思わなかったのである。普通の人なら、多少混み合っても、歩道橋の先の出口で雑踏整理が行われており、多少待てば歩道橋から出ることができると判断する状況であったのだ。例えば被害者の中には、花火の打ち上げ前に、バギー(乳母車)で歩道橋内に入ったが、しばらくはバギーを2台横に並べて進むことができた、という証言をした人もある。重要なことは、花火打ち上げ前は、歩道橋の南側の階段でまだまだ人の流れがあったこともあって、歩道橋の北側からは、殺人的な混雑がその向こうで待っているということを誰にも想像できなかったという事実だ。歩道橋内の混雑は、花火開始以降急速に激しくなり、花火の打ち上げが終わることには、歩道橋全体で雑踏密度が10人/平米を超えるような状況になってしまった。そうなった時点以降に、歩道橋に入ろうとした人たちは、そもそも歩道橋の入り口で行列がまったく前に進まなかったので、歩道橋を渡るのを断念して帰った人も多くある。しかし亡くなったり、怪我をした人は歩道橋の北側の入り口に来たとき、入り口はまだまだすいていたというのが事実で、一部に言われるようにたいへんな混雑に子どもを連れて突っ込んで行ったというのはまったくの誤解なのだ。

この事実は、明石市の事故調査委員会の報告書でも明らかにされている。左の図は、事故の負傷者が時間の経過とともにどのように歩道橋を進んだのかについての再現の図であるが、花火打ち上げの時点は、被害者はばらばらに歩道橋内をすすんでおり、それほど密集していなかったが、その後時間の経過とともに歩道橋南端に密集していったのがよくわかる図である。
この質問と意見は、事故の直後からずっと続いている。私なりに、いろいろな機会を捉えて繰り返し発言してきたつもりだが、民事裁判の判決が確定し、事故から丸4年目を迎えるのを機にもう一度、この問題について考えをまとめておきたい。
私の知る限り、自分が連れて行った責任を感じていないご遺族は一人もいない。ご遺族、特に亡くなった人と一緒に花火大会に行った人は全員、深い自責の念にずっとさいなまれ続けている。このことは、この4年間ご遺族と一緒に裁判を乗り切ってきたものとして間違いないと断言できる。たとえば、どうして子どもを花火に連れて行ってしまったのだろう。自分が連れて行きさえしなければ。日ごろはできるだけ人込みをさけるようにしたのにどうしてあの日は歩道橋に入ってしまったのだろう。主催者(警備会社も含む)や警察が警備していてくれるだろうと安易に信じた自分が愚かだった、云々。ご遺族は、子どもを花火大会に連れて行ったことについて、痛烈な責任を感じている。ご遺族は、自責の念を噛みしめた上で、誰かが最低限のことをしていれば、あのようなことは起きなかったのではないかという疑問を持っているのである。
考えてもみて欲しい。花火大会は、そんなに危険な場所と思われているだろうか。人混みといえば、TDLや愛知万博もたいへんな人混みだが、事故が起きるかもしれないとか、常に危険を予知して危険を感じればすぐ撤退しようと考えながら、TDLや愛知万博に行くだろうか。2001年7月21日に明石であの事故が起きるまでは、花火大会がそんな危険な場所であるというような認識はなかったはずだ。むしろ、子どもやお年寄りも含めて楽しめる、夏の楽しい風物詩であるはずだ。ほとんど全員のご遺族も、花火大会にはそのようなイメージを持ち、危険なんてないだろうと考えて子どもを連れて行った。だからこそ、自分が子どもを連れて行ったことについて、自責の念を断ち切れないのだ。花火大会には、危険が内在するというのは、あの場所が混雑するおそれがあるというのは、いわゆる後知恵に属する考え方なのだ。
もうひとつ言いたいことは、亡くなったり、怪我をした人のほとんどは花火の打ち上げが始まる前に歩道橋に入っているのだが、その時間帯は歩道橋の北半分は、普通イメージされているほど混雑はしていなかったという事実である。歩道橋内では、比較的ゆっくりとではあるが、歩いて歩道橋の半分あたりまで進むことができた。その後極端に進行速度が落ちたが、そのときは後方(歩道橋の北半分)にぎっしりと人が埋まっており、その人混みに逆行してまで歩道橋から出ようとは思わなかったのである。普通の人なら、多少混み合っても、歩道橋の先の出口で雑踏整理が行われており、多少待てば歩道橋から出ることができると判断する状況であったのだ。例えば被害者の中には、花火の打ち上げ前に、バギー(乳母車)で歩道橋内に入ったが、しばらくはバギーを2台横に並べて進むことができた、という証言をした人もある。重要なことは、花火打ち上げ前は、歩道橋の南側の階段でまだまだ人の流れがあったこともあって、歩道橋の北側からは、殺人的な混雑がその向こうで待っているということを誰にも想像できなかったという事実だ。歩道橋内の混雑は、花火開始以降急速に激しくなり、花火の打ち上げが終わることには、歩道橋全体で雑踏密度が10人/平米を超えるような状況になってしまった。そうなった時点以降に、歩道橋に入ろうとした人たちは、そもそも歩道橋の入り口で行列がまったく前に進まなかったので、歩道橋を渡るのを断念して帰った人も多くある。しかし亡くなったり、怪我をした人は歩道橋の北側の入り口に来たとき、入り口はまだまだすいていたというのが事実で、一部に言われるようにたいへんな混雑に子どもを連れて突っ込んで行ったというのはまったくの誤解なのだ。

この事実は、明石市の事故調査委員会の報告書でも明らかにされている。左の図は、事故の負傷者が時間の経過とともにどのように歩道橋を進んだのかについての再現の図であるが、花火打ち上げの時点は、被害者はばらばらに歩道橋内をすすんでおり、それほど密集していなかったが、その後時間の経過とともに歩道橋南端に密集していったのがよくわかる図である。
by sato_takemune
| 2005-07-20 18:07
| 明石歩道橋事故